朝日新聞によると、「憲法で保障された「職業選択の自由」を制約する恐れがあるので、政府が約束した政府系金融機関への「天下りの廃止」の法案化作業が難航している。」という。

こういうことがあると、憲法改正論に乗りたくなる。

自由が無条件にあるかどうかという議論は、横においておいたとしても、
僕の常識的にも、倫理的にも、社会的にも、感覚的にも、
こんな馬鹿な話しはない。

この場合の自由は、社会的損失に繋がるのである。
少なくともその可能性を孕んでいるのである。
そして、社会的損失を最も大事にしないといけない公務員にあって、それが追求できないことは、まったくおかしい。

個の自由が、他に何らかの損害が及ぶなら制限されるのである。
それが故に、個人の自由など、かなり制限が加えられている。
僕は腹が立っても、誰も殴れない。
そいつを馬鹿と罵ることもできない。
そいつの名前をここで公表もできない。

義務とは、自由でないことである。
いろんな義務があることは、これも憲法にある。
その点でも、自由が無制限にあるなんてあり得ないことがわかる。

ならば、義務をおえば、権利を得る。
義務を果たさない者に権利はない。
だから、犯罪者の自由を制限できるのだ。
殺すことさえもできるのだ。

公務員のときは、当然、他の仕事に就けない。
公務員のときは、当然、社会のために働く。
しかし、公務員をやめた後は、自由じゃないか。

そんなアホな話しはない。

人を殺した。
けど、今は殺しもしていなければ、反省もして、まじめになった。
だから自由じゃないか。

同じ理屈だ。

しかし、なんといっても、社会の問題になる自由は、制限されるのは当たり前だ。
こんなことがまかり通らないこの国は、おかしい。


しかし、本質論として、先に横においた、自由が無条件にまずありきの原則がこんなおかしい論理を生み出すのではないだろうか。

自由とは、僕には権利に思える。
権利の裏には義務がある。
その義務は、まず社会正義なり、社会運営の負担だろう。
その義務をおう者にだけ、権利である自由が与えられるということにした方がいいのだろうか。

当然、人間は自由もあるよ。
誰を罵ろうが、殺そうが。
けど、この自由は、僕の定義では、権利じゃないから、奔放だ。

自由と奔放を分けて考えるのはどうだろうか?

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