bourei no ai

2006年2月17日
「愛」という言葉をみながよく使う。
大好きとは違うことは、みんな、なんとなく知っている。
けれど、結局、「大好き」だ。

こういうのどうか、
「愛」:相手を幸せにしようとすること
しっくりくるだろう。

しかし、本当に誰かを愛せることなどできるかな・・・
僕なら、誰かを愛せば、身をひく。
あなた達より、よい人間は、この世に山といる。
なのに、どうどうと「愛」を語る、あなた達が解せない。

なら、なぜ自分が「愛」する相手と一緒にいようとするのか。
少なくとも、「自分」が相手を幸せにしようと考えるからだ。
結局、自己中心的。
しかも、相手が、「自分」の「愛」を受け入れなければ、「愛」を止める。
言っておくが、受け入れる「愛」とは、幸せになるかどうかという打算的なものでなくて、君のことが「好き」か「嫌い」かで決まる。
相手が「好き」なら受けいれる。
「嫌い」なら拒否する。
「嫌い」な人に、何もしてほしくないから。

しかし、現実的な「愛」なんて、そんなもんだ。
一方的になんて、あり得ないのだ。
一方的な「愛」をファンというのだ。

傲慢な者は、相手の意志など尊重せず「愛」を与えようとする。
自分を愛さなくなって、それを他人に向ける。
子供への過剰な「愛」がその典型。
子供には、麻薬になる。

本来、人は、ほとんど自分のために生きる。
それはいかんともしがたいことであり、健全な姿である。
しかし、だからこそ、少しの犠牲を払うことが、尊い。
犠牲は報われることで犠牲でなくなるが、
報われなければ犠牲である。

人は、どう転んでも、利己的である。
自分は自分のために行動し、相手にさえも自分のため行動して欲しいと望む。

この原理を、まず受け入れる。
自分がそうだと受け入れる。
だとすれば、他人もそうだと受け入れざる得ない。
そうしないと、親や配偶者が私のことが好きだからで好きでやっているなどと傲慢な精神が生まれる。

受けいれた上で、相手が、自分のために少し犠牲にしてくれたことが尊かったり、愛おしくなるはず。
そうじゃないと、私はあなたを愛しているのに、なぜあなたは私を愛してくれないなどという傲慢が精神が生まれる。

ま、世間は、嘘の愛に充ち満ちている。
それでいいだろうよ。
ただ、そんな愛を高尚なもののようにいうのは、やめてもらいたい。
よほど、ファンや片思いの方が、尊く愛おしい。


僕は、愛を求める。
僕は、誰かに幸せにして欲しい。
けれど、それは傲慢だと知っているし、もし、そんなことをしてくる人がいたら、それは尊く愛おしく想う。
ただし、それは、人間が利己的だと知っている者が相手のとき。
相手に与えることだけを生きる理由にしている、生きる亡霊に愛されても、それは取り憑かれるだけだから、拒否する。

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