ギャンブラー

2006年1月23日
−細胞がギャンブラーやねんな。思想がギャンブラーやねんな。

こう僕の彼女に言われた。

人間の目標や夢にいかに立ち向かうかの姿勢には、
大まかに2種類ある。
こう定義してみよう。

・自力本願型(計画型)
・他力本願型(ギャンブラー型)

自力本願型は、
まず計画をたてる。
そして、計画に沿って行動し、
計画外のことは理性で我慢する。

他力本願型は、
とりあえずしたいことをしておく。
そして、目の前にあることにだけを対処する行動をとり、
常に感性を研ぎ澄まして、チャンスを伺う。

しかし、本能的に、自力本願な生き方こそが、あるべき姿だと思う。
他力本願な考え方は、自力本願な生き方の失敗に対する救済として成り立っているのだと思う。
人は一生懸命に生きても、思い通りいかないことがたくさんある。
自力本願な生き方や考え方だと、どうしても自分を責めてしまう。
(子供が死んでしまったことなどが、それにあたると思う)

おそらく親鸞聖人や蓮如は、そういう人生にある不条理から人を救済するために、そう説いたのだと思う。
(よくは知らんけど・・・)

僕は他力本願である。
すべてを天のせいにする。
運命だと思う。
産まれたときから、決まっているのだと、思う。
さて、僕がなぜ他力本願なのか。

子供のときによく親に叱られたときに言われたこと。
「あんたは、ほんまはやったらできる子や!」

僕は、こう言われることが嬉しかった。
逆に、こう褒められるときは、なんとなく違和感を感じた。
「あんたは、えらいなー。やっぱりかしこい(すごい)子や」

所属していた少年野球でヒットをよく打った。
みんなすごいと褒めた。
けど、なぜ打てるかの説明できなかった。
それどころか、毎打席、バッターボックスで震えてた。
この震えがいい具合になっているのかもと思った程。

いつか打てなくなるかもと思った。
だから努力した。
腕の力を付けたり、フォームを考えたりした。
けど、なぜ打てるのか、そして打てないとき、なぜ打てないのか、
わからなかった。
確信が持てなかった。
自信が持てなかった。

成果を褒められるより、ポテンシャルを褒められる方が、嬉しかった。
成績を褒められるより、才能を褒められ方がすごいと思った。

それは、自分の血が褒められている気がした。
自分の血が、他の血より優秀だと感じることが心地よかった。
変わらないものを褒められた方が確実なことだと思ったからだ。

だから、僕は、努力を嫌った。
それは努力が裏切るとか、そういうことでない。
努力は、才能を凌駕するときがあるからだ。

僕の進学した高校へは、僕はほとんど努力せずに入った。
そこには、それとは反対に、努力して喜んで入学した者もいた。
最初、僕はその者を馬鹿にしていた。
ところが、大学進学では、負けた。
そして、今、お隣の事務所で、そいつは弁護士事務所を開業している。

確かに、どちらが勝ちとか負けとか、これだけではわかならない。

しかし、互いに、それなりに夢を果たしている。
お隣はがんばる弁護士、僕はすごいはずの経営者。

と話しを展開していてお気づきであろう。

実は、自力本願な者は、人生のギャンブラー
自分を努力で変えていこうという革新者。

他力本願な者は、人生の確定論者なのである。
変わらない自分こそが自分であると頑なに信じる保守。

ま、変わらない自分と変わらないでいようとする自分。
そして変わる自分と変わろうとする自分。
それらを愛せれば、いいのだろうと。
今。わかった。30半ば。

僕も変わってみよう。(☆Д☆)キラリーン♪
人生を博打にしてみよう。

くさいおち・・・・
たまには、前向きに。

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