例の長崎の女の子のHPにあったリンク
2004年6月10日 日常9 赤い部屋 (0)
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思えば、恐ろしい事件である。
色々な憶測、事実が渦巻いているが、
親が子を殺すのが、こうも瞬時に、僕たちが許容し、驚かなくなったように、こういった小学生の事件に関しても、許容してしまうのかと思うと恐ろしい。
やはり、僕たちはこういった事件の事実を掘り下げることよりも、ただ単に、驚く、恐ろしいと思うことが大事な気がする。
しかし、真実を追及していくとき、僕たちが必要としている観点は、その事件が特別なのか、それともさして特別でないのか。
なぜなら、特別であれば、それが異常であろうとも、1億3千万人も日本人がいれば、そういうこともあろうかと思えるが、そうでないとすれば、その可能性が近くにも潜んでいるということになる。
用心せねばならないとなる。
冬が近づいきて、火事がありましたというニュースは、その事故の大きさがどうでなく、
「そういう季節がきたな。僕たちも気をつけよう」
というある種、警鐘的な、はたまた風物詩的な役割がある。
しかし、異常性があること自体が、異常的でない時代である。
いろんな異常性が日常に、一般にある。
だから、多少の異常があってももう驚かない。
人は、人間が生まれながらにして異常性を持っていないと思う。
確かに病的な異常性はあるだろう。
それは今も昔も変わらない。
それが社会の影響を受け、異常性を帯びてくる。
しかし、今や、異常性を持つことそのものが、そんなに異常的なことでなくなっているから、何の躊躇もない。
異常を敢えて、ここで定義しておく。
社会を形成する人たち(政治家、芸能人、マスコミ、文壇、社会人、子を持つ親)が大半が認識している知識や思惟、形式知、暗黙知、思考、論理などから、逸脱していること
僕の感覚では、25〜50才ぐらいの人の常識に反していることだと思う。
常識を疑うことが礼賛されるようになって久しい。
個人主義が推進されて久しい。
「自分の常識では・・・」
前にも言った(前は倫理)が、この言葉も本来的はおかしいのだろう。
自分の常識と言った時点で、それはパーソナルな意識なので、常識でない。
コモンセンスではないのだ。
しかし、常識を疑うのではなく、
自分なりの常識を打ちたてようという試みが、常に個々人でされている気がしてならない。
だから、「自分の・・・」となる。
僕がこうして文書を公開している理由は、それとは逆で、あくまで僕の常識を常識化しようというものでなく、世間の常識を疑えというものである。
僕の常識を、マイノリティーのままでいいと居直らないし、
また、それを押し付けようとも思っていない。
だから、この日記は双方向でないと意味をなさないのである。
僕の意識は、アンチ・コモンセンスである。
それは、それとして・・・
しかし、世間の傾向は、マイ・コモンセンスや
マイグループ・コモンセンスを求める。
で、子供が、そういう社会の風潮に影響され、異常であることに迫られる。
異常性を礼賛される。
個性を大切にするということが、そう解釈される。
HPを見る限り、普通の子ではない。
変わった子だ。
けれど、今や、こんな変わった子いくらでもいるし、
みんなこんなもんなんだろう。
子供に色んな情報がいくことを止められない。
子供が影響を受けることを止められない。
そういう時代を止められない。
だから、それに真っ向から勝負を挑むしかない。
悪い情報だけでなく、よい情報を与えていくしかない。
倫理的2ちゃんを作るしかない。
コモンセンスの大切さ、人がわかりあうことこそが奇蹟で尊いことだと発信していくしかない。
自分の常識と合わない人と隔絶することは簡単だ。
「すばらしい気の合う仲間たち」
というコモンセンスを疑うことを発信しよう。
「すばらしい気の合わない仲間たち」
「最悪な気の合う仲間たち」
「すばらし気が合うか合わないかどうでもいい仲間達」
僕たちも、実は間違った常識を持ち、それを子供たちに教えるのはやめよう。
それを疑うこと、そしてそれを新たな常識とすることを教えよう。
世代を越えて常識が共有されることは少ないだろう。
けれど、常識を疑うことが大事なことは間違っていない。
自分の常識なるものを常識とは呼べないこと、
そしてそれを子供に押し付けることこそ悪だということを
僕たちは学ばないといけない。
そういうメタ常識こそ、受け継ぐものだ。
直接関係ないが、僕は子供に自分の論理を洗脳し、そして子供の視点で語らせることで、自分のよきパートナーだと考える浅はかな親をみると反吐がでる。
子供をおもちゃにするな。
子供に低次元の論理を教えるのでなく、もっと論理を超えたメタ論理を教えることで、子供を自由にしないといけないはずなのに。
宗教などはその最たるもの。
それだけでない。
心理学やそういうエセ学問も入る。
いわゆる統計学的なことから導かれる論理だ。
血液型もそうだろう。
遊びとしてはいいが。
確かに知恵として役に立つのかも知れないが、
子供が実は思考停止状態になってしまい、変に悟ったことばかりをいうようになってしまう。
悟りをコレクションするだけの子になる。
そういう子が最近多い。
自分で考えない。
どこかによい指針や知恵があると思って、そればかりを探し頼る。
そして、変に知識のあるものについては、それを妄信、人に押し付ける。
おそらく僕の文章能力のなさから、言っていることは伝わらないから、この辺にしておく。
僕は、今日は苛立っているのある。
ごめん。
まあ、長崎の女の子は、そういう子だろうということで、
しかもそういう子が多いということ。
そして、それが一般に量産されている、あなたの家庭でも。
それは情報や知恵ばかりを妄信するあなたの子だから。
あなたがメタ論理を教えないからですよ。
と言いたい。
最後に、芥川龍之介の子供に宛てた遺書に書いてあったこと
「親の言うことを聞くな」
乱文乱筆をお許し下さい。
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思えば、恐ろしい事件である。
色々な憶測、事実が渦巻いているが、
親が子を殺すのが、こうも瞬時に、僕たちが許容し、驚かなくなったように、こういった小学生の事件に関しても、許容してしまうのかと思うと恐ろしい。
やはり、僕たちはこういった事件の事実を掘り下げることよりも、ただ単に、驚く、恐ろしいと思うことが大事な気がする。
しかし、真実を追及していくとき、僕たちが必要としている観点は、その事件が特別なのか、それともさして特別でないのか。
なぜなら、特別であれば、それが異常であろうとも、1億3千万人も日本人がいれば、そういうこともあろうかと思えるが、そうでないとすれば、その可能性が近くにも潜んでいるということになる。
用心せねばならないとなる。
冬が近づいきて、火事がありましたというニュースは、その事故の大きさがどうでなく、
「そういう季節がきたな。僕たちも気をつけよう」
というある種、警鐘的な、はたまた風物詩的な役割がある。
しかし、異常性があること自体が、異常的でない時代である。
いろんな異常性が日常に、一般にある。
だから、多少の異常があってももう驚かない。
人は、人間が生まれながらにして異常性を持っていないと思う。
確かに病的な異常性はあるだろう。
それは今も昔も変わらない。
それが社会の影響を受け、異常性を帯びてくる。
しかし、今や、異常性を持つことそのものが、そんなに異常的なことでなくなっているから、何の躊躇もない。
異常を敢えて、ここで定義しておく。
社会を形成する人たち(政治家、芸能人、マスコミ、文壇、社会人、子を持つ親)が大半が認識している知識や思惟、形式知、暗黙知、思考、論理などから、逸脱していること
僕の感覚では、25〜50才ぐらいの人の常識に反していることだと思う。
常識を疑うことが礼賛されるようになって久しい。
個人主義が推進されて久しい。
「自分の常識では・・・」
前にも言った(前は倫理)が、この言葉も本来的はおかしいのだろう。
自分の常識と言った時点で、それはパーソナルな意識なので、常識でない。
コモンセンスではないのだ。
しかし、常識を疑うのではなく、
自分なりの常識を打ちたてようという試みが、常に個々人でされている気がしてならない。
だから、「自分の・・・」となる。
僕がこうして文書を公開している理由は、それとは逆で、あくまで僕の常識を常識化しようというものでなく、世間の常識を疑えというものである。
僕の常識を、マイノリティーのままでいいと居直らないし、
また、それを押し付けようとも思っていない。
だから、この日記は双方向でないと意味をなさないのである。
僕の意識は、アンチ・コモンセンスである。
それは、それとして・・・
しかし、世間の傾向は、マイ・コモンセンスや
マイグループ・コモンセンスを求める。
で、子供が、そういう社会の風潮に影響され、異常であることに迫られる。
異常性を礼賛される。
個性を大切にするということが、そう解釈される。
HPを見る限り、普通の子ではない。
変わった子だ。
けれど、今や、こんな変わった子いくらでもいるし、
みんなこんなもんなんだろう。
子供に色んな情報がいくことを止められない。
子供が影響を受けることを止められない。
そういう時代を止められない。
だから、それに真っ向から勝負を挑むしかない。
悪い情報だけでなく、よい情報を与えていくしかない。
倫理的2ちゃんを作るしかない。
コモンセンスの大切さ、人がわかりあうことこそが奇蹟で尊いことだと発信していくしかない。
自分の常識と合わない人と隔絶することは簡単だ。
「すばらしい気の合う仲間たち」
というコモンセンスを疑うことを発信しよう。
「すばらしい気の合わない仲間たち」
「最悪な気の合う仲間たち」
「すばらし気が合うか合わないかどうでもいい仲間達」
僕たちも、実は間違った常識を持ち、それを子供たちに教えるのはやめよう。
それを疑うこと、そしてそれを新たな常識とすることを教えよう。
世代を越えて常識が共有されることは少ないだろう。
けれど、常識を疑うことが大事なことは間違っていない。
自分の常識なるものを常識とは呼べないこと、
そしてそれを子供に押し付けることこそ悪だということを
僕たちは学ばないといけない。
そういうメタ常識こそ、受け継ぐものだ。
直接関係ないが、僕は子供に自分の論理を洗脳し、そして子供の視点で語らせることで、自分のよきパートナーだと考える浅はかな親をみると反吐がでる。
子供をおもちゃにするな。
子供に低次元の論理を教えるのでなく、もっと論理を超えたメタ論理を教えることで、子供を自由にしないといけないはずなのに。
宗教などはその最たるもの。
それだけでない。
心理学やそういうエセ学問も入る。
いわゆる統計学的なことから導かれる論理だ。
血液型もそうだろう。
遊びとしてはいいが。
確かに知恵として役に立つのかも知れないが、
子供が実は思考停止状態になってしまい、変に悟ったことばかりをいうようになってしまう。
悟りをコレクションするだけの子になる。
そういう子が最近多い。
自分で考えない。
どこかによい指針や知恵があると思って、そればかりを探し頼る。
そして、変に知識のあるものについては、それを妄信、人に押し付ける。
おそらく僕の文章能力のなさから、言っていることは伝わらないから、この辺にしておく。
僕は、今日は苛立っているのある。
ごめん。
まあ、長崎の女の子は、そういう子だろうということで、
しかもそういう子が多いということ。
そして、それが一般に量産されている、あなたの家庭でも。
それは情報や知恵ばかりを妄信するあなたの子だから。
あなたがメタ論理を教えないからですよ。
と言いたい。
最後に、芥川龍之介の子供に宛てた遺書に書いてあったこと
「親の言うことを聞くな」
乱文乱筆をお許し下さい。
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