死ぬか生きるかと騒いでいる恋愛沙汰は、他人からみれば、莫迦騒ぎと見える。
他人の眼にも感動的とみえる恋愛もないわけではないものの、当の男と女が、一般にはさほど感動的な人格の者ではないのだから、恋愛はおおよそ当人たちにとってだけの重大事とみてさしつかえない。
一人の特定の異性と精神においててだけでなく身体でも特別の関係を結び、以後はほかの異性と(少なくとも蓋然性としては)特別な関係には入らぬ、そして婚姻や出産をも引き受けてみせる、と構えるのは異様な決断である。
と西部邁氏は書いている。
頷かざるを得ない。
自分たちだけは違うと思うものは、よほど傲慢か、それとも何らかの相当な特別な境遇の者だけだろう。
僕たちは、その意味では、一般的な人間だ。
特別な人間に対して憧れもない。
だけど、僕たちだけは、特別ななのだと願う気持ちがある。
同じことが言えることがある。
それは自分の「生」だ。
誕生日に対する気持ちなどは、その最たるものであろう。
カレンダーをみて、その日が光って見えるから不思議である。
自分が特別なのはある意味当たり前で、それは気持ちがわかるのは自分だけだからろう。
身体的でないこと、どこからか自分の言葉が聞こえてくるのだから、それは神秘でしかない。
特別視するのは当然だろう。
光って見える他人の「生」。
なぜ、自分に対して湧く感情が、他人に湧くのか。
人は、自分のほかにも、こういうどこからともない、音無き声があることを知っている。
音無き声とは、なんだろう。
陳腐な言葉で言えば、本音だろうか。
もう少し高尚な言葉がないだろうか。
まあ、本音でいい。
眠たいから明日。
おやすみー
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